先ほどノーベル賞を日本人が3人も受賞するというニュースを何の感慨もなく読んだ。
今日は6日から7日にかけての誕生日どたばた記を書こうと思っていたのだが、心境変化。
何事もなしえず、いつも目の前の事に流され、いいものを持っていたはずなのに(ぉぃ)易き方の選択肢を選びまくってきた人生。
ノーベル賞というものにわくわくしていた中学生の頃。
生物の授業でキノコの一生(という程のものではないが)を教科書の数行の記述で目にした時、人の人生とダブり、人は動物は何のために地球上に生息しているのかと真剣に先生に議論をふっかけた時もあったというのに。
生まれて身体の構造のままに、本能のままに栄養を取り、時が来たら胞子を撒き子を産み、細胞の限界が来たら災害(病気・怪我)に会ったら生を終わる。
何の目的のために命はあるのか。
単なる細胞活動のなせる業なのか。
ならば
何故、感情というものがあるのか。
嬉しい(餌を見つけた時)、怖い(生命の危機に晒された時)というのは分かる。
逆に言えば、そういう状況のときの脳内活動を「嬉しい」「怖い」と名をつけただけだろうから。
ならば、「楽しい」「哀しい(悲しい)」というのは?
仲間同士でじゃれあってる時の事か?
自分の仔を亡くした時の事か?
それは生存するために必要なものなのだろうか?
そもそも何故生存するのだろうか?
最初は単細胞生物が地球上に現れたのだろうか。
ならばその単細胞生物のままでいても良かったのではないのか。
細胞活動のままに栄養を取り、細胞劣化に従って消滅し。
それがより多くの栄養を摂取可能な活動が活発な細胞が生き残る率が増え、従ってそういう細胞が子孫を残す確率が増え、更にその細胞の中でより他者より栄養を取る手段に長けている細胞が生き残る確率が増え・・・
の繰り返しで人という種が誕生するまでになったのだろうか。
ならば、「生きる」という目的そのもののために「生きている」に過ぎないのではないか。
感情は必要ないではないか。
ただ身体構造が求めるままに栄養を取り、繁殖行動をし種を残す。
身体活動が衰えたら自然のままに滅すれば良いではないか。
物事には初めと終わりがある。
と良く聞く。
なら、生き物の細胞の始まりは自然発生的なものとしてともかく、生き物の終わりは何があるのか。
人は何故知恵を持ったのか。
人という種が地球上に現れたのは、何か最終的な目的があっての事か。
それとも単なる細胞活動の結果、今があるだけなのか。
地球上に存在する種としての目的も何もなく、単なる細胞活動の結果今ある、というだけの事なのか。
ならばすべてに意味はない。
6日に相方が午前中に帰宅し何事かと思ったら、7日は休みを取ったという。
「え」
と思ったら、休みを取らないとお前の誕生日のイベントができないという。
(相方は19〜21時就寝、0〜3時出社)
あら・・・
覚えていたのね。
と思いつつ、6日から7日夜にかけていろいろどんちゃん。
素直に嬉しく思ったけど、これも宇宙規模で見たら意味の無いこと。
人という種が宇宙で何かを残す目的があったとしても、私達は種を残さない。
人という種を存続させるための一番大きな役目を為してない。
生物として存在した意味がない。
人という種が宇宙で何かを残す目的なんてないのだとしたら、まして単なる1固体が感じた「嬉しい」とかいう感情は生物としてほんのつけたしのもの。
種として目的がないのなら、すべては偶然のたまもの。
ならば生に意味はない。
ただ有るだけ。
有り続けるために自分が心地よいと思うものを求めるだけ。
五感というものがあるがために。
感情というものがあるがために。
何も残さず半世紀生きた。
後の人「生」も何も残さず消滅していくのだろう。
ノーベル賞も意味はない。
病気を治したり、生活を便利にする技術につながる新たな発見や研究も何の意味もない。
その固体(受賞者)が己の欲求(知りたい・行いたい)に従っただけなのだから。
第一、
「命」という概念も人が勝手に作り命名したものだから。
動物は命なんて意識していない。
ただ栄養を摂取しようとし、身体的危機を回避しようとするだけ。
命をただ生きようとするものと
命に何か意味を見い出そうとする人という種
意味はあるのか。
物体はそこにあるだけ。
地球という物体の上でうごめいている小さな物体がある、というだけ。
感情があるのが原因か。
感情があるから知恵をつけ働かすのか。
中学の頃と同じ思考経路だが
最後にたどり着いた「感情」は真逆。
中学の頃は
「『生』には何か意味が目的があるに違いない!」
今は
「何も目的なぞない。ただそこに有るだけ」
この後の滅するまでの「生」。
どうやって生きていけばいいのだろう。